中西麻耶は若い頃なぜ義足に?パートナーの存在が好成績の秘訣か!

スポーツ
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こんにちは、ロッキーです!

2024年5月17日から、神戸で世界パラ陸上競技選手権大会が行われます。

パリオリンピックも控えている中で、選手の皆さんがどのような活躍を見せてくれるのかとっても楽しみです。

今回は、走り幅跳びの選手である中西麻耶さんにスポットを当て、若い頃に義足になった理由や、好成績をあげているパートナーの秘訣に迫ってみたいと思います。

それでは、どーぞ!

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中西麻耶選手は若い頃なぜ義足に?

学生の頃はソフトテニスで国体出場

中西麻耶さんは、大阪市に生まれました。

小学生の時に、父親の仕事の転勤の都合で大分県大分郡庄内町に引越しをしています。

高校は、別府市にある明豊高等学校に進学し、ソフトテニスの選手として全国高等学校総合体育大会(インターハイ)及び、国民体育大会に出場するほどの実力の持ち主でした。

総体や国体に出場するということは、かなりの実力をお持ちだったということですね。

仕事中の事故で義足に

2006年の21歳の時、勤務先の塗装店で、崩れてきた5トンの鉄骨に右足を押しつぶされるという、痛ましい事故に遭ってしまいました。

仕事をしながらも、ソフトテニスの大分県代表選手として活動していた中西麻耶さんでしたが、足を残してのリハビリでは、すぐに競技に戻れないことを知り、膝下15センチを残して切断する決意をします。

テニスの大分県代表という実力を持っていた中西麻耶さんにとって、テニスができなくなるということは、本当に苦しいことだったでしょう・・・

しかし、怪我で義足になってからもスポーツに取り組むことを決意した中西麻耶さんは、短距離走の練習を開始します。

すると、わずか半年で100mと200mで日本記録を達成するほどの急成長を遂げました。

やはり運動神経は並の人とは違っていたのでしょうね。

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中西麻耶選手はパートナーの存在が好成績の秘訣か!

アル・ジョイナーとの出会い

中西麻耶選手は、2008年北京パラリンピック100mに、日本人女性として初めて出場します。その時に成績は、100mは自らの日本記録を破って決勝で6位になります。

競技を始めてわずか2年でオリンピックの決勝の舞台で6位・・・驚異的な努力と才能を持ち合わせた選手だということがわかります!

しかし、中西麻耶選手はこの成績に満足しませんでした・・・

日本では敵なしだったため、世界を甘くみていたことに反省した麻耶選手は、海外の厳しい環境に身を置いて精神面を鍛えるために、アメリカに渡ることを決意します。

アメリカのカリフォルニアのサンティエゴにある、ナショナル・オリンピック・トレーニング・センターで練習するようになった麻耶選手は、そこでアル・ジョイナーコーチと出会います。

アル・ジョイナーは、米国の元アスリートであり、1984年のオリンピックでは三段跳びの金メダルを獲得している偉大な選手です。

画像引用:Fire Escape Charters

アル・ジョイナーコーチから、100m、200m、幅跳びの指導を受けるようになりました。

すると、幅跳びの指導を受けてからわずか1ヶ月半後に臨んだ試合で、いきなり日本記録を破る4m71を飛べるまでになりました。

やはり、スポーツ選手にとって良きパートナーは必須ですよね!

自分の能力を最大限に引き上げてくれるパートナーとの出会いは、人生の宝と言っても過言ではないのではないでしょうか?

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【 おすすめ記事 】こちらはパリ五輪内定の深沢こころ選手の記事です。合わせてご覧ください。

まとめ

今回は「中西麻耶は若い頃なぜ義足に?パートナーの存在が好成績の秘訣か!」という題名で記事を書きました。

2024年世界パラでの中西麻耶選手の記録がとっても楽しみですね!

現在38歳という年齢ですので、アスリートとしては全盛期ほどの体力ではないかと思われますが、経験値と精神力で、好成績を上げてくれることを期待しています。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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